右と左は同時に見(ら)れない

止まることのない雨粒その流れにすら終わりが来ろうとは

今週のお題「雨の日の過ごし方」

 

明朝、深夜、真っ昼間、どこの時間でどの場面を切り取っても室内から感じる雨という存在に嫌気をさすことはないだろう。室内から感じる雨。それは音でもいいし、気温でもいいし、湿度でもいいし、匂いでもいい。雨の天気を日常、非日常でわけるとするのであれば、雨という天気はちょっとした非日常になるのかもしれない。そんなめまぐるしく過ぎていく日常の中で、少しばかりの非日常感を感じることのできる雨。しかしながらそんな雨でさえもめまぐるしく過ぎていく中の一部であるということ。透明なガラスを一枚挟み、自分に打ち付けてくる雨。離れようとするまいと必死にそこに留まろうとするがその願いは叶わず他の雨粒にそこの居場所を取られてしまおう。繰り返す。そんな窓に打ちつけられ、流れていく雨を見ているととても気分がよく、この時が一生続けばいいのにとさえ思ってしまう。そんな決められた終わりを迎える明確な時がなくてもいつかは終わりが来てしまう事実。外に出ることがなければ一生雨が降っていればいいのに。とさえ思ってしまう。

 

次の日が休みの日であるというのに早くに布団に入り、眠たくもないのに目をつぶってみる。ありふれた娯楽や、暇を感じさせないこの世の中にあえてこうして瞼の内側を見ている理由はなんなのであろうか。その理由は雨が降っているからである。屋根を打ち付ける音の心地が大変よい。雨の中にも様々な雨がある。小雨、どしゃ降り、パラパラ、どの雨をとってみてもそれぞれにそれぞれの雨の良さがあり、これらの違いほどに優劣のつかないものは存在するのだろうか。

 

降ってみたり、止んでみたりの雨。降り続ける雨に終わりが来るのが寂しいと感じることはあまりないだろう。それは雨の終わりなど誰も意識をしないからである。しかしながら雨の終わりを意識する時もあり、それは降り続けた雨が途切れまた始まった時である。そこで人は初めて雨の終わりと次の始まりを意識するのだ。雨が雨の存在を主張するために一度終わりを迎え、そしてまた始まったのかもしれない。天気とは変わりゆくものである。雨を忘れることなかれ。